「本当の自分」を起点において、教育をつくり上げようという発想は、一見好ましいように見えるか、公教育という制度に乗せようとしたとたんに、困難な問題に直面する。
根本的な矛盾と言ってもよい。
税金によって運営され、それゆえ、一定の社会的な合意を前提に、教育内容や教育の資源配分を決定したうえで集合的に行われる公教育という営みと、ここで言う「本当の自分」を尊重しょうする教育とは、原理的に相容れないものだ、ということである。
「子ども1人ひとりのよさや可能性」を尊重する教育は、百人の子どもがいたら百通りの「よさと可能性」を尊重した教育をめざすことになる。
だが、果たして学校にそんなことができるのか。
原理的に不可能なことは、論証するまでもない(100人分の本当のよさや可能性を発見すること自体、無理なことだ)。
ところが、この論理的な矛盾を曖昧にしたまま、できるだけ子どもの主体性を尊重した教育を行おうとする。
そうなれば、当然のことながら、学校や教師が見なす限りでの「よさや可能性」を生かした教育にしかならない。
社会の維持、存続にとって必要だという合意のうえに、伝達されるべきとされる知識やスキルを、税金を使ってできるだけ多くの子どもに身にツケさせようとする。
公教育の基本的な役割である。
この役割をはずしてよいのであれば、公教育は必要なくなる。
つまり、1人ひとりの子どもの「本当の自分」を大切に扱うレベルにまで、公教育には個別化した対応は求められていないのである。
いや、そもそも「本当の自分」というフィクションを相手に、税金を使って巨大な学校システムを動かすことなど無理なばかりか、まやかしでしかないそれか無理とわかっているから、実際には、学校や教師が認める限りでの「よさ」や「個性」や「意欲、関心」しか取り上げないのだ。
私は、この限界を非難しているのではない。
そうではなく、このような妥協策を採らざるを得ないにもかかわらず、こうした限界や制約の問題点を見過ごした改革論か横行することが問題だと言いたいのである。
それでは、ここにはどんな問題があるのだろうか。
最も重大な問題は、「本当の自分」を正しさの根拠におく教育が、成人後の自立した個人の形成に結びつくとは限らない、それなのに、その可能性と限界については、議論が行われなくなることである。
つまり、先に述べた「個人」の力能の形成にとって、「本当の自分」を中心にした子ども中心主義の教育が、有効な手段となりうるかどうかという議論を抜きにして、「子どもの主体性」を尊重すれば、そのことがそのまま「主体的」な個人をつくり出すことになるという、あまりに楽観的な見方が、現実的な議論を阻んでしまうのである。
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